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織田信長/本能寺の変

織田信長

織田信長/本能寺の変


本能寺址

応永二十二年〔1415〕日隆上人が油小路高辻の地に本応寺を創立したのが後に破壊されたので永享五年
〔1433〕に大宮六角に寺地を移して本能寺と改称された、天文法華の乱で焼失したが天文十六、十七年
〔1547、8〕頃、第八世日承によって西洞院と小川との間の四条坊門〔今の蛸薬師〕の北の地に再興された。
当寺は広大な寺域を占め織田信長の仮宿所となったが、天正十年〔1582〕六月二日に織田信長を攻めた
明智光秀の兵火にあい一山の堂塔を失った。後に信孝が、父、信長の廟を建てたために本能寺は再び、
この地に復興をみることになったが豊臣秀吉の区画整理により天正年間に東京極〔今の寺町〕の
三条坊門〔今の御池〕南の地に移された

本能寺址 織田信長の墓所 阿弥陀寺 本能寺
本能寺址 織田信長の墓所 阿弥陀寺 現代の本能寺

阿弥陀寺

天文年間〔1532〜1554〕清玉上人の開創になり当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町〔現代の大宮今出川東〕に
八町四方の境内と塔頭十一ヶ寺を構えていた。清玉上人は織田家と深い親交があり天正十年〔1582〕六月二日
の本能寺の変の折、本能寺にかけつけ織田信長、信忠、父子及び家臣、百有余の遺骨を当寺に埋葬したといわ
れる。明智光秀を討ったあと豊臣秀吉は清玉にその手柄をほめ、改めて法要を行なうことを命じたが豊臣秀吉に
反感をもっていた清玉はこれを断った、そこで秀吉は三百石、与えようと、さらに強要したが、これも又、辞退して
受けつけなかった。織田信長の正式な葬儀が大へん遅れた訳がそこにあって止むえなく豊臣秀吉は大徳寺山内
に総見院を建て、そこに織田信長の墓所もつくって法要をすませた。天正十八年〔1590〕豊臣秀吉の町づくり計画に
よって阿弥陀寺は現代の寺町上立売ルに移された。そこは、もとのところの八分の一にも満たない狭いところである


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