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神護寺の薬師如来〔じんごじのやくしにょらい〕

神護寺薬師如来

神護寺薬師如来〔じんごじのやくしにょらい〕


神護寺には、ここに来て深い感銘を受けた若い女性が、四十数年の歳月をかけて完成した、
大曼荼羅図がある。その女性は尼となって山内で亡くなった。これは、昭和の事である。金堂は、
山口玄洞の寄進によって再建されたもので、そこに安置されている本尊、薬師如来は、この寺が
まだ神願寺と称していた頃につくられたもので、像高170センチの一木彫りの素木つ゛くりで、延暦
十四年(795)頃の作品といわれる。もし貞観時代の仏像を、一つだけ選ぶとすれば、この薬師如来像
をあげることができる程、時代の相をよく表わしている.即ち,天平時代の仏像のもつ明瞭性に対して、
貞観時代の仏像の密教的な神秘性が、力強い刀法をよくあらわしている。工芸的な天平時代の仏像に
対して、平安初期(貞観時代)のものは、信仰がその制作の根本理念となっているだけに、わたくし達に
仏を観るということよりも‘拝む’という気持ちにさせてくれるもので、その材質となった木材も、もとは
神木のみが用いられていた。この薬師如来も、神木に刻まれていて、それに金箔を置いたり彩色したり
せずに,素木であって、ただ髪と唇だけに色彩が施されている。そして、神木であることを尊重して、
なるべく彫ることを少なくしているために、力強い刀のあとが、深いヒダをつくっている。平安初期の
仏像に一本彫りが多いのは、その時代の信仰形態によるもので、それを代表するのが、この薬師如来
である。この薬師如来は、もと河内国の和気氏の私寺神願寺の所有するものであったが、その神願寺
がこの高尾山寺と合併するとき、ここに移されたのであろうと思われる。かくて、高尾山寺は神護寺と
なって、唐から帰った弘法の住庵ともなり、その隆盛を誇ったが、やがて二回の大火などのために
次第に荒廃。そこに登場してくるが文覚である。

神護寺 秋の神護寺は紅葉がきれい 神護寺の本堂 じんごじの薬師如来の話

文覚については、いろいろのことが伝えられていて、どれが本当なのかと迷うことも少なくない。
ただわかっていることは、後白河天皇に神護寺再建のため荘園の寄進を強要して、その怒りに
触れ、伊豆に流された。そこに源頼朝が流されていたので、文覚は平氏討伐を頼朝にすすめ、
その結果、頼朝の旗上げとなり、その後は頼朝の後援で文覚の神護寺再建工事は思わく通り
運んだということだけはまちがいない。頼朝の死後、文覚の異常とも言える性格から、流転をくり
返し、最後は対馬に流されて、そこで死去したというが、確かなことはわからない。文覚の墓と
言われているものが、神護寺の山頂近くにある。けわしい坂道を登ると、門跡の性仁法親王の墓
(五輪塔)があり、その左隣に建っている五輪塔が、文覚の墓と言われている。もとは堂があった
らしいが、今はその四隅の磁石と、屋根の上の露盤と宝華とが地上に置かれている。文覚に
よって再建されたこの寺も、応仁の乱によってすっかり荒廃。江戸時代に復興されたが、もとの
壮観に及ぶべくもなく、明治初年には、山内にあった和気清廟所が京都御所のかたわらに
,護王神社として移され、塔頭もすべてその姿を没して、今では新しくなった金堂と、多宝塔が人目
を惹いているのみである。多宝塔には国宝の五大虚空蔵菩薩が並んでいる。これは金堂の
薬師如来よりは、のちの、承和年間(834)につくられたもので、その作風もだいぶ異なっていて、
部分的に乾漆が用いられている一木彫りである。もとは鳥獣座に乗っていたものと思われるが、
いまはそれを見ることは出来ない。神護寺では、そのほかに多くの寺宝を有している.地蔵院から
見る保津川は美しい。しかし観光のみに行くべきところではない。登山口の近くの橋のたもとに
建っている古びた石標に、女人禁制”の文字が読めるのに気付いて欲しい。

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