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延暦寺〔えんりゃくじ〕

延暦寺の僧侶

延暦寺えんりゃくじ

比叡山延暦寺で修行された僧侶


比叡山は延暦四年、伝教大師、最澄上人(767〜822)が19才で単身登山して開かれた、我が国
大乗仏教の根本道場です。伝教大師が22才の時、根本中堂を建立して薬師如来を祀り、不滅の
法燈をかかげられてから、1200年の歳に、寺域は一千七百町歩(1700ヘクタール)で東塔、西塔、
横川の三塔十六谷にわれて点在する、堂塔霊域のすべてをさして「延暦寺」と云います,今日も、
されぞれの堂塔迦藍では伝教大師が定められた制式に従って鎮護国家と世界の和平と人々の
平安とを祈願し、国宝的人材となるために多くの僧が日夜修行に励んでおります。又、鎌倉時代
には浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などの各
宗のお祖師さまたちが比叡山で修学せられ、それぞれの宗派をお開きになりましたので、この山
全体が日本仏教の母山として教宗派を問わず多くの人々から親しまれ大切に護られております。

伝教大師 最澄ご誕生
比叡山の東ふもと坂本の地には、後漢の孝献の子孫で日本に帰化した三津首の一族が
久しく栄ていた、ときに神護景雲元年(767)8月18日のこと、坂本の地には蓮華の華が
ふり、めでたいしるしが、あらわれ、おりしも三津首百枝公の家に玉にような男の子が
生まれた。のちに日本天台宗比叡山の開祖となる。伝教大師最澄上人であった。
真盛上人1443〜1495)天台真盛御宗開山
上人は伊勢の国一志郡に生まれる、真正2年(1461)19才の時、比叡山に登り、20年間、山をおりず修行に励む、のち西塔黒谷青龍寺に穏棲、恵心僧都の「往壬要集」によって感得する、称名念仏と圓戒を修め、文明18年(1486)に元三慈恵大師、恵心僧都のかりの比叡東麓、西教寺に入寺し戒称二門の弘通の道場とした。
良忍上人(1072〜1132)融通念仏宗御開山
比叡山で修行を終えた上人は、洛北大原に来迎院、浄蓮華院を建立して声明梵唄(仏教音楽)に専心、のち声明中興の祖と仰かれている上人は、熱心な念仏行者であった。大原の地はもともと念仏聖の遁世するところであったから、上人の声明は念仏と結びついて大きく発展していった。大原の音無しの滝、の前で声明練習に余念のない上人の姿は大原の里人の尊敬を一身に集めた。滝から落ちるリズムと上人の声明発声音とが、完全に一致した時、変わらぬ大自然と流転の世相に在って上人忽然と悟りを開いたという、後世声明は日本の音楽の源流となり、平曲、謡曲、浄瑠璃、長唄、民謡、歌謡曲にまで大きな影響を与えた。
栄西禅師1141〜1215)臨済宗御開山
禅師は14才のとき比叡山に登り、得度受戒し、東塔、北谷の竹林房にあって有弁僧正から天台宗を学び、また顕意大徳より天台蜜教を受けた。のち二度にわたる入宋により、臨済の法脈を相承し、天台、真言、禅の三宗を並べ弘めた叡山の台密葉上流の祖でもある。
空也上人903〜972
金鼓を打ち鳴らして南無だ南無だと唱え、乍ら身振り面白く踊る動作に裘がバサバサと音を立て、左手に持つ枝頭の鹿の角が生きもののように動き、腰の瓢箪がほがらかにはねている。年と共に、この伝道は広さと厚みを加え民衆は親しみをこめて、市の聖、空也上人とよびはじめた。天暦5年(951)京都の町に悪病が蔓延し屍と枕をあわせるありさまであった。上人は疫病に斃れた人を憐れんで、十一面観音を洛中にまわして祈祷をこめると悪病はやんだという、後、浄土思想を広め、尚、今日に於いても盆には街々で開かれる盆踊りは此の空也上人が開かれたものである。
法然上人1133〜1212)浄土宗御開山
久安3年15才にして比叡山に登り、登壇受戒した上人は主に西塔、黒谷での住して法然房
源空と称した。以後、20有余年間、黒谷での求道の人々が続いた、自ら反省し修行に打ち
こむうち、やがて上人「叡智第一」と噂される程、秀才ぶりを発揮した。比叡山を下りた法然
上人は京都吉水の地に住房を構え法門に没入する生活に入った。しかし当時の京洛は
火災、盗賊、大衆兵乱と乱世さながらの様相であった。そんな中で貴族より武士庶民まで
さまざまの階層の信徒が吉水の地に参集した。包容力のある上人がそれらの人々を一身
に受けとめていた。この時、上人69歳、若い弟子、親鸞聖人は29歳であった。
道元禅師 1200〜1253)曹洞宗御開山
禅師は求法のために中国に渡り、貞応2年(1223)春4月、船は大陸の明洲に着いた、
禅師は船に留まって諸山巡拝の準備をしていた。そうした、ある日、日本の珍しい椎茸を
買いに一人の老僧が船を訪れた、聞けば名刹阿育王山の典座(雲水の食事を司る役)
和尚とのこと禅師は早速日本の知識を披レキし中国仏法をたずねて引きとめたが、老僧
「貴僧はまだ修行が文字の中でなく日常の中にあることを知らぬ」と云って早々に去って
しまう、道元禅師はただ慚愧発奮するのみであった。
日蓮聖人1222〜1282日蓮宗御開山
比叡山の定光院(横川地区)本拠として10年の求道修行を続けた聖人は、大志を秘めて
建長5年(1253)安房(千葉県)の清澄寺に帰ったここで三味堂にこもり禅定に入り一心
不乱に祈念を捧げた、丁度、7日目、4月28日東天の日む頃、聖人は房総の霊峯、旭の森
に登り、緑の山なみの彼方に水天蒼茫たる太陽に向い合掌し「南無妙法連華経、南無妙
法連華経」と荘厳に声高らかに題目を唱えた,雄々しい開宗の宣言であった時に聖人32才。
親鸞聖人1173〜1262)浄土宗御開山 (そば喰い木像)
丁度29才の時、救世の為にはどうしたら?…と有名な京都六角堂へ百日百夜の願を
かけられた。毎夜ひそかに京の町へと出かける親鸞の後姿を見かけた同宿の僧達は
色々と悪口を云い、つげ口まで言う様になった、師匠は聖人の在宿を確かめる為、夜中
かに蕎麦の御馳走を出した。その時、ご自作の御姿が聖人の身代りとなって蕎麦の御
給仕をし、共々おいしいと戴かれたという。以来、だれいうことなく、身代わり木像、或い
は、そば喰い木像、とあがめる様になり、今なを無勤寺の大乗院に安置されている。
一遍上人1239〜1289)時宗御開山
上人は10才の時、母と死別、浮世の無常を感じて仏門に身を投じたという、生まれ
故郷の伊予(愛媛県)から九州にわたり、専修念仏の修行にいそしんだ、比叡山、
高野山、四天王寺、熊野と念仏勧化と修行の旅を続けるうち世を捨てた「捨て聖」と
呼ばれ全国を遊行して歩いた。全国を遊行した後、修行の根拠地京洛(京都)の地
に足をふみ入れた時、上人に結縁する武士、農民、商人達は狂気のように上人を
迎えた、当時、乱れた京洛の地にあっては救世主以上の存在であった。
天海大僧正慈眼大師1536〜1643
比叡山の僧にして徳川家康公の信任厚く黒衣の宰相として知られる、比叡山をふ
り出しに全国を修行して歩き再び比叡山を志した時、織田信長の比叡山焼討ちには
ばまれた後、武田信玄の帰依も受け念願の比叡山に登った時、石田三成の拳兵を
知り神田薬師堂で護国の祈祷を修して家康公の信頼を得た話は有名、また家康公
に山王一実神道を説き諸法度を下すのに参与し後の秀忠、家光と三代の将軍に
ついて幕政に参画、政権確立に貢献した、中でも日光山を与えられ、この造営に
尽くし晩年上野の東叡寛永寺の開山となり国家安泰を祈ったことはよくしられている。
相応和尚831〜919
建立大師、相応和尚は回峰行の開祖である。比叡山の峰を廻り拝み歩く回峰行
者は生身不動明王の化現とされているから、その衣帯装束はみな不動尊の象微
になっている。頭には蓮葉の桧笠を頂き、草鞋は蓮華台を表わす。腰に降魔の剣
を差し、右手には桧扇、左手には念珠、みな生身の不動を扱いする姿とされてい
る。白衣の袈裟は息災衣と呼ばれ桧笠は不動尊頂上の蓮台を表している、桧風
は不動の利剣、笠の伍は羅索を象どるという、伝説によると相応和尚が無勤寺
草庵の一夜の夢に「常に不動明王を念じつつ遺く三塔の謎峰を巡化すれば自他
一切の災厄は恩のままに除かれるのであろう」という霊告をうけ、ここに救世の
いわゆる北祷回峰行の基礎がうち立てられることになった。
弁慶のひきつ゛り鐘
山門(比叡山)と寺門(三井寺)とが互いに抗争にあけくれている頃の話、比叡山西
塔の武蔵坊にいたと云う、衆徒の荒法師弁慶は、つねに三井寺焼討ちの先峰とし
て攻撃していた。ある戦いの時、三井寺の伽藍を焼いたうえ名鐘の一つを奪った
豪力をもって任ずる弁慶は一人引っぱって帰り、大講堂につるしたと云う、その時
の鐘は現在三井寺にもどり、引っぱられた時の傷がついたまま保存されている。

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